2017年3月18日土曜日

中谷玄洋様 追悼 (その2 自慢話及び愉快な思い出と共に)

僕が昭和43年に住友重機械に就職した時の、コンベヤ部部長であり入社早々の僕を信頼し、八戸長距離コンベヤ設備の設計を任せてくれた尊敬すべき上司である。でもなぜ信頼されたのかは良く判らないが、とにかく、文句を言われたことはない。
奥様も気力を失われたようで、氏が昨年亡くなられたにも拘わらず、本日訃報のハガキが届いた。96歳とのことだから天寿を十分に全うされたのだが、やはり誠に残念である。
氏は、福井県の出身で、就職後招集されて満州に配属された。航空機の整備将校として従事され、日本の敗北でソ連に抑留された。が、通常の抑留兵とは異なり、技術者として優遇されたらしい。抑留地は黒海沿岸で比較的温暖な地域で、建築物の設計に従事したとのことだ。今になって思うのだがもっとその時期のことを聞いておくべきだった。同様な後悔が亡くなった人ごとに生まれてしまうが、文字通り後悔先に立たずってことだ。

氏は、住友重機械の搬送事業部に所属していたが、その1部門であるベルトコンベヤ部を率いており、搬送事業部が新居浜に本拠をおくにも拘わらず、ベルトコンベヤ部だけは大阪に進出していた。僕が入社した頃、新入社員は全員が先ずは新居浜にて研修を受け、その後、所属を決められて各所に配属されるのだが、僕は研修中に肝炎を発病して故郷である大阪の住友病院に入院した。大阪に住友病院があることも知らなかったのに、なぜ大阪に帰ることを希望したのかも記憶はないが、2か月後退院した時には、配属先は僕自身の希望とは関係なく新居浜の搬送設備事業部となっていた。

退院後、新居浜の事務所で設計していると、当時搬送部の設計部長であった中谷さんが僕の机に来て、「大阪に行く気はないかね」と聞いたのだが、新居浜なる風土に合わないなと思っていた僕は、すぐさまこの招待に飛びついた。僕が大阪に移動してから後に、中谷さんは、コンベヤ部部長として大阪に転勤となったから、その後は中谷さんの部下として働くことになった。
なぜ、僕を大阪に選んだのかは不明で、これも聞くべきであった、と後悔している。

新居浜の搬送事業部は、営業・見積り・設計・管理・据付などなどの各セクションがそれぞれのセクションの仕事だけをするのだが、大阪コンベヤ部は、見積りから納入・費用管理までをプロジェクト的に処理する部で、つまり、何でも自分で遣るって部門で、実に効率的なセクションであった。が、この組織に慣れると、新居浜のようなセクショナリズムの部門では働けなくなってしまう。
が、僕は仕事に関しては面白い人生を送れたと喜んでいる。
僕の仕事の面白さは、ここにて自慢しているので理解されることと思う。
http://isabon.blogspot.jp/2013/02/blog-post_27.html

氏を心から尊敬するとともに、上記の点でも、中谷さんには心から感謝している。氏が居なければ、かように面白い人生は送れなかったであろうと考える。僕の人生で、心から尊敬する人であり、氏の逝去に関してこころからの哀悼の意を示したい。

ところで、氏は後継者としてXXって男を課長にした、と言うか、中谷部長の上からの圧力でそうせざるを得ない状況になったようで、XXは、中谷部長を飛ばしてその上にコンタクトするようで、ある時、この温厚な中谷部長が切れて、「XX君!君のことは全く信用できん!」と怒鳴り付ける場面があった。
中谷部長は退職後、関係会社の顧問として出ていかれたが、それから、このXX]は、僕を完全に苛めの対象とみなして、何事であろうと、難癖をつけるようになった。

が、課長であるから僕は仕事の報告をしなければならない。毎日報告すべきことはあるが、其の度にくだくだと難癖を付けられた。それも、わけのわからん難癖である。そこで、僕は特に機嫌が悪い月曜の朝一番を選び、この男が難癖をつけるような事項を全て次々と報告し、報告したあとは、沸騰状態で怒鳴りまくるXXの頭越しに、土佐堀川の風景を眺めて、XX氏のことは放っておくことにした。かくしてその後の1週間を好きなように過ごすことが出来た。ただ、製造セクションや外注に提出する製作図面には必ず課長印が必要なのだが、承認を得るべき図面にも意味不明の難癖をつけて課長印を押そうとしない。そのため、製作や据え付けなど、全ての工程が遅れそうになり、これを目的に課長印を押さないのだろうと推定できた。彼には僕への怒りの方が、製作遅れによる損害よりも大きな目的だったわけだ。そこで僕は、休日に出勤しては、何百枚、何千枚もの図面に、彼の課長印を押した。どうせ、何事かがあっても、彼が少しでも援助することは全く無く、全てを僕自身で解決しなければならないから、と割り切ったのだ。不思議にも彼は僕の戦略に全く気付かなかったので、結局、僕はいろんな仕事を、彼の援助は全くなし、どころか、彼の邪魔を排除しながら、自分だけで成功させ続けたわけだ。
かような事情もあって、休日出勤が続いたので、ついでに彼の引き出しを調べ、人事に提出される僕の人事考課表を見つけた。が、あれほどの仕事を成し遂げたのに、予想通り、僕の評価はとても低かった。が、こればかりはどう仕様もないことだ。ただ、彼が注力した敦賀セメント工場設備が大トラブル続きで、僕が担当した八戸長距離コンベヤプロジェクトの利益を大枚注込んだにも拘わらず、そんな評価であったことが腹立たしい。なお、この事実は、八戸と敦賀の双方の据付と原価管理を担当した宮崎さんから、「すまんねえ八戸の利益を敦賀のトラブル解消に使ってしまって」と、謝りながら教えられたことなので間違いはない。
なお、さような利益の敦賀案件への流用にも拘わらず、八戸案件は当時の事業部長から、なぜこんなに儲かったのだ、と叱責されるほどで、僕の直接の上司であった佐薙さんが、僕の頭を丸坊主にさせます、と謝ったとのことであった。この設備がもうかったのは、僅かな図面で大重量を出図できる設備であったことと、設計外注の設計者が、XX課長が担当する設備に総動員されたので、八戸案件には僅かな外注者だけしか与えられず、僕自身が必死に対応せざるを得ず、結果として節約できたのだ。
(なお、八戸長距離コンベヤを皮切りに、あれほど儲け続けたのに、僕を定年数年前に簡単に首を切り、しかも何の優遇もない首切りをした住重そのものが、もっと腹立たしい)

ある時、例の如く日曜出勤をして、XX課長の机の中に、当時僕が担当していた住金鹿島第3焼結設備の搬送装置群の、彼の想定する採算予算書を見つけた。その仕事の予算は隅から隅まで僕が管理しているのに、なぜ彼がその仕事の採算が判るのかと不思議に思った。数日後、その件の採算予算を出せと命令してきたので、3億程度の利益が出るとの予算書を提出した。それを見た途端に、彼は頭から、文字通り、蒸気を吹き出しながら、こんな利益が出る筈がないだろうと、怒鳴りまくり、再度見直せ、と怒鳴った。
衆人環視の中で怒鳴りまくるのと、何かと言えば、”マスタベーションは駄目だ” と言うのが彼の性癖であった。怒鳴りまくられてもどうってことは無いのだが、マスタベーションって発言にはどうしても慣れなかった。この言葉に慣れることができる人は先ず居ないと思うが。
翌日、彼の机の中にあった予算書程度の、低い利益に修正して提出すると、途端に、機嫌が良くなり、「そうだろ!こんなものだろう」と言いながら納得していた。何か月か後に、事業部管理部から、本件について僕の算定通りの高利益が連絡されて、今度は、「お前はどんな管理をしていたのだ」と怒鳴りまくった。なんとも、全く自分勝手な男だと思った。
以後、重要な仕事の間に、彼の思い付きの開発仕事が押し付けられたが、その仕事も含めて、彼は自分自身では、その仕事をどう推進すべきかが全く判らないようで、人が出した結果だけを批判するって仕事ぶりで、つまり、全く能力の無い、臆病な男であると結論した。住重にはかような男が多くいて、何故か、そのような男が出世する組織であったようだ。
その無意味な開発仕事を急かせ続けるので、無駄な仕事を延々と続けたが、基本として自分や部下の今後に役立つような資料つくりを優先して誤魔化した。その後、その努力は実際に報われたし、新しい仕事での基本的な技術ともなった。
福井市でふるさと再生にがんばっている加藤幹夫さん、あの時、一緒にXXに怒鳴りまくられてくれて有難う。君の資料つくりの方法や、出来上がった資料は本当に役立ったです。
http://www.kimamori.jp/index.html#id67

ただ僕としては、XXや、その後、東京で苛められた田中裕次郎(略称YY)のような上司に会うことで、何があっても自分の目的を貫くって手法を獲得した。つまり、かような上司は臆病で、いろんな問題の解決法をくだくだと考えて結論を出せないので、事態の改善が遅れて問題が大きくなり爆発してしまう。それを防ぐために、僕はかような上司の指示に従った行動、これをやらないと怒鳴りだすので、時間が無駄になるのだが、やる振りをして、それとは別に、自分なりの対策を同時に進めることで、問題を解決する手法を取った。結局は、事態を良く知っている僕自身の対策で、事態は爆発前に改善されるわけだ。
住友重機械では常にかように行動しないと、えらい損害が生じる事態に発展するのだ。が、上司の言う通り行動し大損害が生じても、それなりの金が掛かる対策も了承されるし、上司は言うことを聞く奴だと評価するので、事態が最悪であっても出世には関係ないのだ。実際にそのような事態を何度か見ている。
ところで、逆に言うなら、僕がいくら問題発生を抑え、利益を出しても評価されないってことになるわけだ。あほらしい。
問題発生を抑えたことは判らないでも、利益を出せば気づくのではないかと思うが、それも気付かれないのが社会組織なのだろう。いよいよあほらしい。

ところで、XXっておっさんだが、英語も喋れない僕を、僕が設計者であるにも拘わらずバングラデッシの、英国ホスターウイラー社肥料プロジェクトの搬送設備の据付指導責任者として派遣した。しかも、僕自身のプロジェクトでもない、更には、現地に行って判ったのだが、ろくでもない欠陥鉄工品だらけのプロジェクトに派遣されることになった。
実はこのプロジェクトの現地指導チーフとしては、僕と同期の鉄工部門の馬場さんが派遣されることになっていて、現地調査も終えていたのだが、彼は、新居浜が新しく受注したイラクの案件に派遣となり、その代替に僕が選ばれたのだ。新居浜の都合で指導員が替えられたこと、更に、その代役に現場経験の無い僕が選ばれたことに、輸出営業部長、この人は営業部の天皇と称されていて、住友重機械には、方々に天皇と呼ばれる我儘物があちこちにいたのだが、この天皇がえらく立腹して、僕への助力を全くしないと決めたらしく、僕が現地に初めて行くにも拘わらず、営業からは誰もついてこなかった。初めての海外旅行を、種々トラブりながら漸く現地に着いたのだが、仕事初めのプロジェクトミーティングでは、参加者、それも巨大プロジェクトの称号サー付きのTOPも交じってのミーチィングで、彼等が喋っている英語が全く理解できないところから始まった。が、何とか、一年で、いろんな問題を解決しながら無事据付を終え、そのプロジェクト内では最初の検収を得た会社として、しかもバックチャージ無しどころか、据付指導だけで2千万円もの利益を上げて帰国した。それ以来、XX氏は僕に対してとても紳士的になった。どうやら、僕がやろうと思えば何でもやり遂げるってことに気づいたようであった。
と、またまた自分の自慢話になってしまった。

ところで、本件、現地では残業残業で仕事をして、残業費は会社から会社に支払われたのだが、当時、世界のあちこちでの建設工事で大赤字となっていた搬送事業部は、僕の残業費の半分をその赤字補てんに入れてしまった。が、赤字を補てんした僕本人は評価されなかったってことだ。
でもまぁ、以降、バングラデッシは僕の得意な地域となり、更には米国や台湾の案件にも従事出来て、いろんな経験を得ることが出来たし、バングラデッシの経験から更に僕の視野は世界にと広まった。仕事を終えてからもその経験が僕の人生での重要な力となっている。それに、会社に入るまで挫折を知らず、しかも、しんどい事を避ける性癖のあった僕の心を強靭にしたのは、彼の苛めであることには間違いはない。であるからして、住重への恨みは残すが、XXへの恨みは完全に忘れ、愉快な思い出とすることにした。

話はかなり脱線したので「もと~い」⇒新居浜で、報告を言い直す時に、実際にこう叫ぶ上司が居た。確か村上さんって人の良い人であった。軍隊経験があるほどには年寄りではなかったから、多分、彼の学生時代の経験から来るものだろう。

中谷さんには仲人となってもらったし、その後、東京に転勤後、また、退職後も中谷さんのお宅を訪れては、お互いの状況報告をしていたが、数年以上前に、体調を悪くされたのか、訪問を断られ、年賀状もやめるとの書状が届いた。恐らくは奥様も体調が悪いのかなと推察し、気にはなりながら、年賀状は返信不要ですと出し続け、今回上記の訃報を得た。

かくして、僕は僕の人生の重要な指導者を失ってしまったのだ。
中谷さんのことをあれこれと思いだしながら、氏の冥福を祈ることにする。

追記:以上を記載して、僕はある男を思い出した。コンベヤ課に配属された時の同僚で、中筋さんって男がいた。仕事は優秀で真面目で人柄の良い愉快な男であった。彼は新居浜出身で、コンベヤ部への勤務後、新居浜の搬送に戻ったのだが、伝え聞く所では、上司(噂では、先述のYYとか)に苛められて自殺したとのことであった。もしそれが事実であるとすれば、あのような男を苛め殺すとはいかなる職場なのだろうか、と思う。
僕の人生のなかで、触れあい忘れ去られた彼についての記憶の断片をここに書き遺します。

なおYYについては、その当時の事業部長から直接聞いたのですが、事業部長に土下座して昇格を頼んだそうです。これから思うに、彼のような性格の人にとっては、XXもそうだったのでしょうが、会社の上下とは土下座する人間関係で成り立っているのでしょう。そうでない人間は排除されるべき存在だったのです。そのため、苛めを平気で出来るのです。彼等にとって人生とはそれほど厳しいものに違いありません。でも、中谷さんや僕にとってはそうではありません。二人にとって人生とはお互いに笑いあって生きて行くものだったのです。
ただ、実際のところ、例えば戦場とかで、生きるか死ぬかとなると、僕でも土下座も厭わないでしょう。そこまで考えを進めて行くと、人生とはどうあるべきか、それによって得られる成果、その成果が自分を満足させるのか否か、等々、そこまで考えざるを得ません。

とにかく、住友重機械で出世するって、なかなか大変なことなんです。そこでは、人間としてのプライドは放り捨てねばならないってことです。他方、シベリヤに抑留されるほどに命がけな経験をした、中谷さんは、人間としてのプライドを捨てず、それゆえに出世できなかったのですが、そのような中谷さんを僕は心から尊敬しているのです。



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